自殺率の低い町の研究からもらう、生きづらさ解消のヒント

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長い鬱期→妊娠出産→育児がつらくて逃げ出したかった時期を経て、今は息子(2013年生まれ・ホームスクール→母子登校中・ASD診断受けてます)との毎日を楽しんでいます。

心理学(交流分析)や、発達・HSC の子ども達について色々学んでます。
「認定子育てハッピーアドバイザー」「発達障害学習支援サポーター」

どんな人もその人らしく生きられる社会を目指して、身近なことから活動中。

とても良い本を読みました。
『生き心地の良い町~この自殺率の低さには理由(わけ)がある~/岡檀著/講談社』です。

この本の内容は、日本の中で自殺率がとても低い町、徳島県海部町(かいふちょう・現在の海陽町)を調査し、その過程と結果をまとめたもの。
本の帯には『生きづらさを取り除く』とあります。


自殺、というと、ほとんどの人には関りのない、ほんとうにほんとうに最悪の事態と捉える人もいるかもしれません。でも、生きづらさを感じている人の多くが実際にそれに至るかは別として「死んでしまいたい」気持ちを抱えながら生きているはずです。

私には大人になってから自死したいとこがいて、また遡るとそのいとこの父(つまり私の叔父)も30歳を少し過ぎたくらいでアルコール依存からの脳溢血で亡くなっています。

そして、自分自身も長い間、鬱が強かったこともあり、『生きづらい』要素を持っている家系なんだという思いがありました。

その影響もあり、息子が生まれた時からずっと育児の最大テーマは、「この子が将来自ら命を絶ってしまうようなことが起こりにくいように育てたい」ということでした。

幸いなことに私自身は、子どもを育てながら自分自身の生きづらさにも向き合うことが出来たので、今では、そこまで思い悩んだり打ち沈んだりすることはほとんどなくなりました。

もちろん上手くいかない事も、泣きたくなるような出来事もあります。「生きててもしょうがない」「死んでしまいたい」と「一瞬」思う事だってあります。

以前の私だったら、一度そんな考えに取り付かれると長い間、それを振り払うことが出来ずに苦しんでいました。

でも、今は「一瞬」で済んでいる。これは、私にとっては、ものすごい大きな進歩なのです。

私自身の変化と、この本で紹介されている自殺が起こりにくい地域の要素には、大いにリンクするところがあります。


これは、地域環境からの「生きやすさ」への考察の本ですが、地域を作っているのは一人一人の人間なので、個人の生きやすさ・生きづらさを改めて考える上でも、とても参考になりました。

本に書かれている研究対象地域における自殺予防因子(自殺を予防する要素)は5つあります。

自殺予防因子-その1
いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい

自殺予防因子-その2
人物本位主義をつらぬく

自殺予防因子-その3
どうせ自分なんて、と考えない

自殺予防因子-その4
「病」は市に出せ

自殺予防因子-その5
ゆるやかにつながる

『生き心地の良い町~この自殺率の低さには理由(わけ)がある~/岡檀著/講談社』目次 より引用


この本で取り上げられているような地域を、個人ひとりの力でいきなり作り上げることは出来ません。

それでも、我が子と、家族と、身近な人と、どんな関係を築いていけば、『生きづらさ』が減っていくのか?個人で出来ることは何か?そのヒントになればと思い、この本をガイドに、私自身の考えや体験を複数の記事に分けて、書いていこうと思います。

尚、本題に入る前に、身近な人を自死でなくした経験のあるあなたに、著者のとても大切な言葉を伝えます。

自殺へと傾いていく人をひとりでも減らしたい。しかし私は、自殺した人を決して責めない。日本では毎年三万人の人々が、自分の意思や力だけではどうしようもない何らかの苦難に押しひしがれて、自殺へと追い詰められていく。その過程を知り原因を探ることで、対策に役立てることができるよう、私はこのような調査や提言を続けている。自殺した「人」を責めているのではない。

そのことを、話を始める冒頭で必ず伝えるようになった。

『生き心地の良い町~この自殺率の低さには理由(わけ)がある~/岡檀著/講談社』P202-203より引用

自殺予防因子-その1「いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい」

第1回目のこの記事では、本に書かれている自殺予防因子-その1について、日ごろ私が感じていること

・大きな違いの前に小さな違いを認め合うのが大事

・自分が変わると勝手に環境が変わっていく

という2つのことについて、書いていきます。

特別な『多様性』以前の小さな違いを恐れないこと

予防因子-その1として挙げられている「いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい」と聞くと、最近よく聞く『多様性』というワードを思い浮かべる人も多いかもしれません。

もちろんそれは大事です。私も様々なアプローチで、多様性について考えたり学んだりしているところです。

ただ、本で具体的に挙げられているのは、毎年募金の呼びかけがなされる「赤い羽根募金」や老人クラブの加入に関するエピソードです。

要するに、日常のちょっとした事柄についてそれぞれの意見があって当たり前という意識が根付いているので、周りの人がどうしているかを気にして無理に合わせるという雰囲気が(この本で調査対象となった自殺率の低い町・海部(かいふ)町には)ない、のだそう。

本来、社会で大きな議論となるような発達特性などの違い『だけ』について、「みんな違ってみんないい」といくら言っても本質的な多様性は実現されないと私は感じています。

ただ実際には、大きな差がない(ような気がする)場合ほど、違いを認め合えないものだとも思います。


たとえば、相手が外国人であったなら、自分と全く違う意見や習慣を持っていても「文化が違うから」と納得しやすいですよね?

でも、同じ国で育っている者同士の場合、同じおおらかさで自分と異なる相手の言動を受け入れることが難しくなります。

だからこそ、この本に書かれているような『大袈裟』ではない事柄で、自分の考えを臆せず言える環境が必要だと感じます。

そもそも私たちはみんな、脳や神経の働き方、生まれた環境、遺伝的に持っている要素、養育に携わった人や地域独自の価値観などなどによって、それぞれの感じ方や考え方、意見を持っています。

違って当たり前なんです。

それなのに、
「人と違うことをしたら何を言われるかわからない」「周囲の人とは違うニーズを伝えると、和を乱すのでは?一人だけズルいと言われるのでは?」という心配が強く、人の顔色を窺わないでモノを言うことが出来ない、行動出来ないとしたら、とてもじゃないけれど『生きやすい』には程遠いと思うのです。

(もちろん、このような「和」を尊ぶ文化は、歴史の中で必要性があって育まれたものではあるでしょうが、それが苦しくなってきたとしたら、そう感じる人が自分の行動を変えていったらいい、と私は思います。)

 

日常のささいな事柄からそれぞれの意見や感じ方を気負いなく伝えあえる環境と人間関係があれば、もっと大きな事柄でも、『あの人は〇〇だから違っても認めましょう』という例外的な対応としての違いの許容ではなく、違って当たり前という前提の元に、お互いに関係性を築いて行けるのでは、と感じます。

 

『多様性』は特別な人だけにあるものではない

たとえば、学校で何らかの合理的配慮を求める際に「この子(私)は〇〇の診断がついているから、□□の配慮をしてください。」という伝え方がまだまだ一般的だと思います。

診断がついていないと、配慮が出来ないと言われるケースもあると聞きます。

でも、本来人それぞれ効率良く学べる方法も集中できる環境もそれぞれ違うのです。

だからそこが学ぶ権利を保障する場所である以上、お医者さんのお墨付きがあるかどうかに限らず、可能な範囲で、それぞれが学びやすくする工夫があって欲しい。

 

(学校現場がとても大変であること、先生たち個人の力でどうにもならないことがあるのは、私も承知しています。なので、どんなニーズも叶えて当然と言いたいわけではなく、少なくとも「診断の有る無し」=つまりお墨付きがある人だけがニーズを叶えられる可能性があるような状況はおかしいという意味です。)

 

「いろんな人がいるのが当たり前」の環境であれば、「この子(私)は□□した方が安心できるから(または、落ち着けるから、上手くやれるから、勉強しやすいから等)□□したいんですが。。」という相談の仕方になる。

そうなると、『〇〇な人』とカテゴライズされた『特別扱い』な人のみならず、どんな人もその人のニーズに応じて相談していけるし、特別扱いと言われないか心配して必要な工夫を相談しにくい…ということも減るはずです。

そして、これが実現すると、自殺予防因子-その3で挙げられている「どうせ自分なんて、と考えない」ことにもつながると思います。

 

自分に出来る些細なことから、『違う』意見を表してみる

とは言え、同調圧力が強い雰囲気の場所に今居る人にとっては、人と違う自分の意見を伝えるのはとても勇気がいることだと思います。

でも、それでも。「自分」を出せるようになりたい、周りの様子をうかがって自分の気持ちや想いを表せないのは苦しいとおもうならば、少し勇気を持って『周囲の人とは違う』意見を表してみることが必要です。

なぜなら、今、他者との違いを表すことを恐れている人は、自分の意見を伝えるという「訓練」が必要だから。

そして、実際にやってみて「違う事をしたり言ったりしても大丈夫」と感じる経験を積み重ねると、次第に恐れずに自分の考えを表せるようになると思います。

最初はほんの些細な事柄からでもいい。

例えば、数人で食事に行った時に他の人がみんなAランチを頼むからつい合わせてしまう…ほんとはCランチが良かったのに…というような経験が日常的にある人なら、「私はCランチにする」と言ってみる。

大抵は、そのことでなんやかんや言われることはないとおもいます。
(その事で、何か言われてしまうような集団であれば、そこは離れた方がいいと私は思います。ちょっと話は逸れますが、やっぱり自分の感覚に従って食べたいものを食べるって大事!)

 

生きやすさは波及する

人と違うことを表明することの良さは、自分以外にも普及すると私は考えています。

そういう人が増えるほど、今勇気が出せずに言いたい事ややりたい事を我慢している人の心のストッパーを外すことが出来ます。

「一人より、二人、二人より三人」と、数がいるから安心できる心理は、この場合、プラスに働きます。

つまり、自分の考えを(人と違うかどうかを問わず)表す行為は、最初は、自分自身の生きやすさとしての変化をもたらすのみかもしれないですが、徐々に周囲の人に波及して自分自身を取り巻く環境をも変える力を持っているんです。

もちろん、全ての人があなたに影響されて変わる訳ではないし、そうなる必要もありません。自分の考えを表に出したくないという人はそのままで良いわけです。

ただ、自分の考えを発するあなたに好感を持つ人が周りに残り、それを妬んだり、同調を強く求める人が離れていけば、結果として「いろんな人がいて良いし、それぞれの考えを伝えあってやっていく事を好ましく感じる人」が残って、まさに自殺予防因子-その1が実現された環境が自分の周りに出来上がる…

これって素晴らしいことじゃないでしょうか?

 

これは実際に私自身が体験している変化です。

私は今、地域で学校が苦手な子どもと保護者の会を主宰しています。この会を立ち上げたことで、思い切って思いを形に外に表したことで、自分を応援してくれる人たちとの出会いがたくさんありました。

始めた当初「何か中傷されることもあるかもしれない…(学校に行かないということは、まだまだ誰にでも受け入れられることではないので。)」という不安感が無かったと言えば嘘になりますが、今のところ、面と向かって何か言われたことは一度もありません。

私の行動を、「変わった人だな~」とか、「(否定的な意味で)よくやるな~」と思っている人も周囲にいるかもしれませんが、それこそ「いろんな人がいてよい」の一例となれれば、それでいいかな、と私は思っています。

 

この本では、自殺予防因子はそれぞれが相互作用を持っていて、どれが欠けてもそれぞれの因子が良い方に機能しないという趣旨のことが書かれていますが、個人の生きやすさの観点でみてもそれは同じだと私は感じます。

「いろんな人がいてよい、いた方がよい(自殺予防因子-その1)」
→それぞれ自分の思いにしたがって行動する
→「どうせじぶんなんて、と考えない=自己効力感(自殺予防因子-その3)」
→「「病」は市に出せ(自殺予防因子-その4)=自己効力感があるので、弱みを見せることを必要以上に恐れないで済む」

という具合に、一つの要素が「生きやすさ」を生む次なる要素につながっていきます。

さて、第1回目の「いろんな人がいてもよい、いろんな人がいたほうがよい」についての考察はこの辺りにして、また次回は他の自殺予防因子と個人の生きやすさの関りについて考えていきたいと思います。

『生き心地の良い町~この自殺率の低さには理由(わけ)がある~』多くの人に読んで欲しい内容ですので、気になった方は是非。

 

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