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『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるには』レビュー〈中編〉

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私→長年、生きづらさを感じながら過ごしてきた人。

息子(2013年生)→学校外で育つASDっ子。

出産→育児が辛くて逃げ出したい期→育児しながら自分が育ち直せると気がつく→子どもとの日々のお陰で色々学び、生きやすくなってきました。

2022年4月~通信制大学在学中(心理・教育・福祉等)。

「認定子育てハッピーアドバイザー」「発達障害学習支援サポーター」

どんな人もその人らしく生きられる社会を目指して、自分に出来る小さな一歩からあれこれ活動中。

『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるには』(阿比留久美著/大和書房出版)レビュー中編です。
前編は→コチラ

さて今回は、”自立”についての章をメインに紹介します。わたし自身、ここしばらくは専業主婦です。在宅で少し仕事をしたりもしていましたが、お小遣い程度以上の収入はなく、そのことに悶々としていました。

ただ、最近では経済的自立を諦めた訳ではないものの、わたしが専業主婦であることでこの家族がまわっているとしたら、わたしはわたしなりの役割を果たしていると胸を張っていいのでは?と考えるようにもなってきていました。

そんなわたしが「それそれ!」と頷いた記述からご紹介します。

 

7章 自立しないとダメですか? より

 しかし、近代社会とは高度に分業化が進み、あらゆる行為が他者の行為によって支えられているような、そんな有機的分業社会です。そのためロビンソン・クルーソー的自助のような「自立」は成立しえません。そのように考えると、本来他者に依存しない「自立」というのは論理的に不可能であり、「自立」というものは単に依存に対置されるだけのものではないことがわかります。

たとえば、夫婦関係における自立と依存について考えてみましょう。専業主婦は賃労働する夫に経済的に依存していますが、夫の方は家事労働を妻にやってもらうことによって、賃労働に集中することができています。その点において妻に依存しているといえます。またこの二人の生活様式は、企業における家族賃金制度という雇用賃金体系に依存して成立するものです。同時に企業活動が円滑に回っているのは、この家族賃金制度のもとに妻の側が家事労働をたくさん負担し、夫に対して物理的・精神的ケアをおこなっているためであり、企業は家族制度に間接的に依存しながら活動を成立させています。この例からみえてくるのは、実は、自立というのが個人単位で成立するものではなく、家族単位・組織単位で成立する、あるいは判断されるものだということです。ですが、そのような前提が意識されることは少なく、自立を判断する時にはあくまでその個人が自立できているかどうか、という視点で判断されることがほとんどです。(中略)

『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるにはp172-173』(阿比留久美著/大和書房出版)

『夫に対して物理的・精神的ケアをおこなっている』度合いは、それぞれの夫婦関係や家族構成によって異なるでしょうが、『企業は家族制度に間接的に依存しながら活動を成立させています』という点について、特に転勤族妻界隈では話題に上ることです。

多くの転勤がある企業は、転勤辞令が出てから引っ越しまでの期間は1,2か月であり、その間も会社員たる夫は仕事をします。(むしろ引継ぎ業務等で普段よりも長時間働くケースが多い)引っ越しの手配や作業をするのは誰かと言えば、ほとんどの場合妻です。

転勤族の妻であっても専業主婦ばかりではなく、在宅で働いていたりパートに出ていたり、子どもの状態によってはそのケアに多大な労力がかかったりする訳ですが、それはお構いなしに、会社都合による転居に際して発生する雑務を同然行う労働力として位置づけられているように思えます。

であるならば、夫名義宛に払われている給与は、実際はその家庭に対して支払われていると考えても良さそうにすら思えます。しかし、夫が会社で働いている間できない会社都合の雑務を果たすことで自分も役割を果たしている、と感じられる人はさほど多くないように感じます。

そして、仕事をしていない、していても夫の転勤に帯同しなければ本来得られていたであろうポジションや給与水準は望めない現実に、自己否定感を募らせる転勤族妻は多くいます。

そんなことを言うならば転勤族と結婚しなければ良いではないか?自分で選んだことだろう?という声も聞こえてきそうですが、もしも転勤がその企業を健全に保つ上で必要なことであったとして、転勤族だと結婚できない、という共通認識が社会に広がればその企業で働きたい人材は減り、企業は社会に価値を提供出来なくなるかもしれません。

そうなればそれは個人だけの問題ではなくなるでしょう。

(実際に若い世代では若い内だけではなく、ずっと転勤がある企業で働きたい人は減っているようです。)

文中でも示唆されているように、一見個人の選択の問題だと捉えられがちな事柄も、実は回りまわって社会と個人の間で影響を与え合っている事柄であるのにも関わらず、個人の課題として扱われ、ごく個人的な悩みとして周囲だけでなく当の本人も自己責任的な考え方になってしまう現状には課題を感じます。

 

 すべて一律に同じものが求められることも問題ですが、それぞれの属性やポジションに応じて達成すべき自立が暗に定められていて、求められる自立の違いの間には序列が存在していることも問題です。障害者と健常者で求められる自立のありようが変わったり、主婦であれば賃労働はしなくても家事労働だけしていればよいが、主婦ではないなら賃労働もするべきだ、というようなダブルスタンダードが存在しています。あるいは、男性が主夫として家事労働を十分に担っていても、男性であるがゆえにそれでは十分自立しているとは考えられなかったりするトリプルスタンダードのようなものも存在しています。自立をめぐっては、そのような不均衡で不平等な配分が随所に生まれています。

『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるにはp175-176』(阿比留久美著/大和書房出版)

『それぞれの属性やポジションに応じて達成すべき自立が暗に定められていて、求められる自立の違いの間には序列が存在していることも問題』について、それは問題でなく、当然ではないか?と考える人も多いかもしれません。特に『障害者と健常者で求められる自立のありようが変わったり』といった点については。

でも、わたし個人は、この点について大きくうなずけるような体験を持っています。
『自立をめぐっては、そのような不均衡で不平等な配分が随所に生まれて』いることの問題点はなんでしょうか。

障がいが合っても健常者(とされる人)と同じように働くべきだ!と、わたしは言いたい訳ではまったくありません。

むしろ逆のことが言いたいのです。

それは、障がいのあるなしに関わらず、人にはそれぞれの状況の中で、社会的に求められるような”自立”をすることが難しいことがあるにも関わらず「あなたは〇〇だからここまででOK、あなたは出来るはずだからここまでやらないといけない」と押し付けられてしまうことへの違和感です。

このような押し付けは、ともすれば、押し付けられる者が押し付けられない者に対して、怒りの矛先を向ける理由になってしまいかねません。

わたしには、決して労働しようがない程度に知的障害が重い弟がいます。労働はおろか、食事排泄入浴等すべての身辺動作に介助が必要です。(知的に1歳程度で発達が留まっている状態です。)

一方で、姉であるわたし自身はとりあえず健常者とみなされる状態で生まれました。そこそこ成績も良く、高校までは何の問題もないと思われるような人間でした。でもその後精神状態が悪くなり、進学できず、良くなったり悪くなったりを繰り返し、仕事も何度も変わりました。

当時、わたしは母から「〇〇(弟)よりもあなたの将来の方がむしろ心配」と言われました。わたしはそこまでの状態なのかと衝撃を受けたのですが、振り返ってみれば、それは、社会から求められる”達成すべき自立”が、弟とわたしの属性では大きく違うからこそ生まれた心配だったと思います。

絶対に働けないどころか一人で生活するもの不可能だと一目で分かる弟は何らかの社会福祉の元に守られるであろうけれど、当然自立すべきと判断される健常者のわたしは、困窮したとしても守ってもらいにくく、結果として、最重度障がい者の弟よりも苦しい状況に追い込まれる可能性は確かにあり、しかもそうなった場合でも”自己責任”とされてしまいやすい立場にいます。

 

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『主婦であれば賃労働はしなくても家事労働だけしていればよいが、主婦ではないなら賃労働もするべきだ、というようなダブルスタンダードが存在しています。あるいは、男性が主夫として家事労働を十分に担っていても、男性であるがゆえにそれでは十分自立しているとは考えられなかったりする…』

という傾向は、(特に主婦でも働く人が増えたり男性が主夫であることが増えたりする昨今においては)弱まったり異なったりしている(『主婦であれば賃労働はしなくても良い』とわたしが感じていないように)と思いますが、完全になくなったわけではありませんよね。

それぞれの家族の関係性の中で、家族みなが納得して選んだ暮らし方のかたちであるならば、それを他者がとやかくいうことはないはずですが、旧来型の価値観はまだ根強く、たとえ誰かに非難された訳でなくとも、本人が自ら社会の価値観を内在化してそれに合致しない自分を自己否定し苦しさを感じてしまうことも、多々ありそうです。

 

さらに望まないポジションを受け入れるしかない状況で(たとえば実家から自立して働きたいが、家族に介護が必要で、かつ本人が家族以外の他者に介護してもらうことを受け入れないなど)、やむなく受け入れた役割を必死で担っているのに、さらに社会的に自立していないと自他からの否定のまなざしが向けられるとしたら、それはあまりに苦しい状況です。

 

孤独と居場所の社会学~なんでもない〝わたし″で生きるには

5章 翻弄される女性の生き方 より

ここで少し戻りますが、社会の中の女性にまつわる話題の中で、前述したことに関連してわたしがハッとさせられた部分を引用しておきたいと思います。

女性と社会進出

(前略)しかし、そのように女性がリーダーシップをとって男性に伍して働くということは、賃労働にそれだけ多くの時間を費やし、そのぶん子育て・介護や家事といった再生産労働を他の誰かに担ってもらう必要がでてきます。そこでピンクワーカーの手を借りることになりますが、概してピンクワーカー*の賃金は、他の労働よりも低くおさえられています。長時間労働が前提とされるパワーエリートの地位を女性が担おうとすることが、低賃金労働を担う女性の搾取を前提にしなければ成立しないのならば、シェリル・サンドバーグに象徴されるような社会は、再生産労働の負担や不平等を他の女性に押し付けただけのものになってしまうのです。

パワーエリートをはじめとした女性が賃労働に参入していくと、そのぶん保育や介護といった仕事も拡大し、女性がそれらの仕事への従事を通じて社会参加することが可能になっていきます。これは、一面ではどんな女性にも「活躍」の道が開かれつつあるという風にもみえますが、新たな分断をうむ、危ういものであることは指摘しておかなければなりません。

*ピンクワーカー 保育士や看護師など、女性が従事することが多い職業のこと。女性が主に従事し、ピンク色の制服を着ていることが多いことからピンクワーカーと呼ばれます。

『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるにはp134-135』(阿比留久美著/大和書房出版)

*部分も上記書籍からの引用。

下線は引用者による。

最近、保育の場において、子どもたちの安全が脅かされている実態についての事件・ニュースが相次ぎ、同時に保育士の人員不足や労働環境の課題が取りざたされています。どんな背景があっても子どもへの暴力や不適切な行為は許されませんし、過酷な環境にあっても、子ども達のために働いてくださっている方が大半だと思います。

ただ、これらの事件を一部の個人の問題とだけ考え、一時的に事件を起こした人をバッシングして終わるのではなくて、社会の不平等を押し付けられた鬱積が子どもに向かってしまっている表れ、わたしたちの社会の問題として考える必要があると思います。

99%のためのフェミニズム

ここまで、女性がどのような環境の中で職業生活や家庭生活を営んできたのかをみてきました。そこからは、男性中心主義的、企業社会中心主義的な価値観のもとに、女性の労働が有償労働においても、無償労働においても構造的に軽視され、搾取されてきたことがわかります。(中略)新自由主義や資本主義の影響を人びとは強烈に受けています。その影響は、男性よりも女性に、しかも社会的地位の弱い女性により大きく降りかかってきています。

ですが、シェリル・サンドバーグのように、女性が出世してパワーエリートになるという方法では、その構造自体は変わらず、一部の女性が名誉男性化するだけです。

結婚・出産し専業主婦や主婦パートになる女性は一見恵まれた状況にいるようにも見えますが、その構造の大本には企業社会や男性による女性の無償労働への回収が存在しています。しかも、そうやって専業主婦や主婦パートが優遇される一方で、生涯シングルでいる女性やシングルマザーは優遇されることもなく、現在の状況は男女間、女性同士の間の分断を広げるように機能しています。

そのような状況では、誰もが苦しい状況になってしまいます。(中略)

異なる立場の者が分断されてしまうのは、誰かの利益を確保するために他の人の不利益が不可視化されたり、正当化されたりするからです。「99%のためのフェミニズム」は、そんなゼロサムゲームをはねのけ、より多様性のある広い支持基盤をもった反体制運動をわたしたちに呼びかけます。

自分の利益を何とか確保するために四苦八苦するよりも、多様な人たちとすり合わせながら、より多くの人たちにとってのウェル・ビーイングを考えられる社会のほうが、幸福度は高くなるのではないでしょうか?(後略)

『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるにはp144-145』(阿比留久美著/大和書房出版)

このパートは、『翻弄される女性の生き方』と題されている通り、女性に焦点を充てているので言及されていませんが、『現在の状況は男女間、女性同士の間の分断を広げる』の『男女間の分断』の中でも、男性優位社会のメリットを享受していない男性たちの、男性ならではの苦しみについて、個人的にはとても気になっています。

近年変化がみられるとはいえ、まだまだ、男性優位の社会の中で女性が不利な立場に置かれている現状は否定しようがありません。ただ、わたし個人は、女性だったからこそ、上に書いたような(重度知的障がいの弟よりも心配、と言われた)状況から、ある意味”復活”し、社会の中で一定の役割を持つ大人としての”いま”を獲得出来たと感じています。

もちろん、これは、文中に指摘がある通り、現在のわたしが『(一応今の所、安定した会社員である夫と)結婚・出産した(フルタイム勤務でない)主婦』だからこそ感じることだと言えます。シングルであったなら、今のような考えには至っていなかった可能性は高いです。

ただ、わたしが男性であったなら、学歴がない(高卒)こと、学卒後に正社員として就職していないこと、数々の転職歴などは今よりもっと決定的に不利に働いたは確かなのでは?と思うのです。

勿論、わたしは決してパワーエリートになることは出来ません。もしわたしがそういったものを目指したとしたら、(目指さないとしても目指すことが可能な能力を持っていたとしたら)、今よりもずっと、男女格差を痛烈に感じたと思います。

仕事、特に旧来的な企業で高みを目指そうとする女性は”ガラスの天井”の存在を否応なく感じさせられ、男女の格差を認識するけれども、そこから離れたところにいる場合においては、むしろ男性の方が(男なのだから安定した収入を得るべきといった親世代や社会からのプレッシャーなどもあり)ハードモードになる、といった指摘は、そこここで聞かれることですし、わたしの実体験としても感じます。

一個人の苦しさ、生きづらさという視点で考えると、わたしのように、(たとえ労働市場からの排除の結果だとしても)主婦として生きるという道が許されていることは救いですし、このような道が男性にもあって然るべきと思うのです。

これは、7章より引用して紹介した『男性が主夫として家事労働を十分に担っていても、男性であるがゆえにそれでは十分自立しているとは考えられなかったりするトリプルスタンダード』への課題提起につながります。

夫婦の両方が賃労働をするのも、女性が主婦をするのも、男性が主夫をするのも、それぞれ正社員でない働き方も、もちろん、同性カップルも、それぞれの人が持つ特徴や適性やその家庭の価値観によって選択し、それでも人間的で文化的な暮らしが担保できるとしたら、今よりもずっと生きやすい人が増えるのではと感じます。

男性の生きづらさをめぐる課題について興味深い記事を見つけました(別タブで開きます)→男性にも「ことば」が必要だ

ここで紹介されている『99%のためのフェミニズム』の考え方には、すごく惹かれるものがあります。(『99%のためのフェミニズム宣言』というタイトルで本が出ていて、これから読む予定です。またそれについてもレビュー記事を書きたいと思います。)

『自分の利益を何とか確保するために四苦八苦するよりも、多様な人たちとすり合わせながら、より多くの人たちにとってのウェル・ビーイングを考えられる社会』を実現するためにどんなアイディアがあるのか?知るのが楽しみです。

さて、次回の記事では『自立と依存の関係』『規範的自立像への抵抗』『小さな「居場所」をつくり続ける』などのパートをご紹介して、この本のレビューの最終編にする予定です。→最終編はコチラ

 

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私→長年、生きづらさを感じながら過ごしてきた人。

息子(2013年生)→学校外で育つASDっ子。

出産→育児が辛くて逃げ出したい期→育児しながら自分が育ち直せると気がつく→子どもとの日々のお陰で色々学び、生きやすくなってきました。

2022年4月~通信制大学在学中(心理・教育・福祉等)。

「認定子育てハッピーアドバイザー」「発達障害学習支援サポーター」

どんな人もその人らしく生きられる社会を目指して、自分に出来る小さな一歩からあれこれ活動中。

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