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『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるには』レビュー〈後編〉

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私→長年、生きづらさを感じながら過ごしてきた人。

息子(2013年生)→学校外で育つASDっ子。

出産→育児が辛くて逃げ出したい期→育児しながら自分が育ち直せると気がつく→子どもとの日々のお陰で色々学び、生きやすくなってきました。

2022年4月~通信制大学在学中(心理・教育・福祉等)。

「認定子育てハッピーアドバイザー」「発達障害学習支援サポーター」

どんな人もその人らしく生きられる社会を目指して、自分に出来る小さな一歩からあれこれ活動中。

『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるには』レビュー記事の最終回です。

前編は→コチラ
中編は→コチラ

中編では、『翻弄される女性の生き方』『自立しないとダメですか?』の章から、いくつかピックアップして紹介しました。

最後の後編では、『7章 自立しないとダメですか?』の中のトピック「自立と依存の共存関係」『8章 居場所ある生を生きるために』からは「メイク・サム・ノイズ!」の一部を紹介したいと思います。

7章 自立しないとダメですか?より

 脳性麻痺をもって生まれた障害当事者でもある小児科医の熊谷晋一郎は「自立とは依存先を増やすことだ」と度々語っています。熊谷によれば、健常者は何にも頼らず自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされていますが真実は逆で、健常者は様々なものに依存できていて、障害者は限られた者にしか依存できない。だからこそ、日常生活の中で不便が起きるのだといいます。自立とは依存先を増やすことだという熊谷の言葉は広く共感を呼び、自立と依存とが本当は共存関係にあることをわかりやすく示しています。(中略)この言葉は、ともすると対義語のようにとらえられていた自立と依存の関係を反転させ、自立と依存が密接に関連しあいながら達成されていくものであるということを指摘した点において、依存と自立のパラダイム転換を起こすような側面を持つ言葉でした。一人で何でもやる自助型の自立を目指すのではなく、他者とつながりながら生きていく道を探っていこうという生き方は非常に重要になってきます。

『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるには P180-181』 阿比留久美著/大和書房

ここで紹介されている熊谷晋一郎さんは、”当事者研究”で知られている方です。

「自立とは依存先を増やすことだ」という言葉を知るより以前、誰の言葉かは失念してしまったのですが、これとよく似たことを意味する「自立している人ほど多くの人に依存している」という言葉を聞いたことがあり、わたしは深くうなずきました。

たとえば頼れる人が30人いれば、毎日誰かに頼っていたとしても、それぞれの負担は一ヶ月に一度です。でも頼れる相手が1人か2人しかいなかったらどうでしょう?その人が毎日誰かに頼ろうとすれば、相手にしてみれば、毎日、または二日に一度頼られていることになり、負担が大きすぎてその人間関係は継続しにくいものになります。

わたし自身の体験を振り返ってみても、若い頃には頼れる人が少なく、時にその少ない相手に依存し過ぎて人間関係を壊してしまうことが何度かありました。

依存先が多数あって分散するほどにその人は安定し、困った時にも相手に負担をかけ過ぎない程度に上手く他者に頼りながら生きていけるのです。

 

後程また紹介しますが、書籍『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか(松本俊彦編/日本評論社)』の中で、松本俊彦先生は「依存症とは「依存できない病」と言ってもよいところがあります。誰にも頼れないから、モノに依存するわけです。ですから依存症という言葉は使うのをやめたほうがいいくらいで、アメリカ精神医学会の診断名が依存症から使用障害に変わったのはその意味でよかった。」と述べています(『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』P236より引用))

使用障害にならないまでも、自立の対義語として依存を捉え、他者に頼らずに自分一人で頑張らないといけないと自分に言い聞かせてしんどい思いをしている人はとても多いはずです。またその反動で、自分が他者に頼らず頑張っているからこそ、人に上手く頼る人を許容できない。

わたしにはそういうところがありましたし、それはわたしだけではないと思います。

そうではないんだ、自立と依存は共存するものなんだ、という価値観が広がれば、もっと楽に生きられる人が増えそうです。

ただこの言葉に救われた人がたくさんいた一方で、適切に他者に依存できない人はどうするのか?という気持ちが芽生えた人もいると思います。わたしもその一人です。

またこの本の筆者も同様の課題提起を行っています。

(前略)熊谷をはじめとして、身体障害をもつ人たちが自分らしい生活を過ごすためには、依存先を増やしていくことは不可避であり、達成すべき重要な要素であることは間違いありません。そのことは認識したうえで、なおわたしは、「依存先を増やす」ことは、他の誰か、他の何かとの継続的な関係を形成していくこととなり、それは他者との関係形成が苦手な人たちにとっては非常に難易度の高いものになり得る点をどう考えればよいのかいまいちわからず、この言葉を100%肯定することに難しさを感じています。依存先を増やすためには、そのために人間関係を円滑にする能力や、頼れる資源を見つける能力を身につけなければならないという側面があります。それは、ともすると、新たな能力主義やハイパー・メリトクラシーにもつながりかねない側面があり、自分一人では達成できない価値の達成に向けて、他者とかかわりあったり、協同しあったりすることを求めるものになります。それらが、新たな能力主義やハイパー・メリトクラシーに陥らないようにするためにはどうしたらいいのかを考えておく必要もあると思うのです。

『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるには P181-182』 阿比留久美著/大和書房

前述の書籍『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』は、この問いに対する実践を現場で重ねている方々のレポートをまとめたものとも言える内容です。

そして、この書籍の巻末対談には、熊谷晋一郎先生が登場し、「自立とは依存先を増やすこと」の意図を明確に語っています。2冊の書籍を同時に紹介することで混乱してしまう方もいるかもしれませんが、これはセットで是非知って欲しいと思うので、以下に引用します。

(前略)このメッセージに対して、いくつかの批判をいただいています。その中の一つは、「依存先を増やせる人はいいよね」というものです。

私のように見てすぐにわかる身体障害の場合、困っていることが周囲の人にわかってもらえます。大変なことはいくつもありますが、一度社会の中に飛び込んでしまえば、善意の人たちが手を差し伸べてくれる。つまり、自然に依存先を増やすことができます。一方、依存症などの精神障害の場合、直感的には困っていることがわかりづらい。こうした障害の場合は、社会に飛び込んでも自然に依存先が広がるわけではないし、本人たちも自分を責め、そうそう依存先を増やすことができない、というご批判です。

これに対する私の答えは、「依存先を増やす」というメッセージは当事者に向けたものでなく、社会全体に向けて発信したメッセージだ、ということです。「依存先を増やす」というメッセージが当事者に向けたものであると誤解されると、弱さをオープンにして「助けて」と言う義務が個人の側にあるといった新しい自己責任論になってしまいます。これは、本人を「助けて」と言える人に改造する、私が否定してきた当事者に変化を強いる医学モデルであり、社会モデルとは相反するものです。

『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか p235』松本俊彦編/日本評論社

※下線は、引用者による。

目に見える障がいは理解されやすく助けを得られやすく、そうでない困り感は助けを得られにくい現実は、確かにあります。

このレビュー記事中編で書いた、わたしがかつて母から向けられた心配(最重度知的障がいの弟より、健常者だけれど精神的にも経済的にも不安定なわたしの将来の方が心配だ。と、かつて母から言われたことがあります。)も、その一例です。

ここではっきりと、『「自立とは依存先を増やすこと」とは社会へのメッセージであり、本人に助けを求められる人間となるように求めるものではない』と熊谷先生は述べています。

ですが、その意図に反して、阿比留先生が懸念しているように、また、『「助けて」が言えない』の中でも取り上げられているように、”助けてと言える援助希求力”を”個人の力”として育てようという空気を、わたしはそここに感じます。

そして正直に言って、わたしもわが子に「助けを求める力」を身に着けて欲しいと願っています。その力が弱ければ、困った時に助けてもらえないのではと、思ってしまうからです。

現実問題として、人は助ける相手を選ぶ。もっと言えば、困っている度合いで助ける相手を選ぶのではなく、”助けて然るべき”、”助けてあげたい”と感じられる相手を助けるのだと、感じるシーンは多々あります。

『依存先を増やすためには、そのために人間関係を円滑にする能力や、頼れる資源を見つける能力を身につけなければならないという側面』があることは、現時点では、わたしは否定できません。

一方で、だから個人が頑張るしかないんだ、と諦め切ってしまいたくない。”個人が頑張るしかない”のとは違うかたちの社会を子どもたちに残したい、という気持ちも強くあります。

「自立とは依存先を増やすことだ」という社会に対するメッセージだったはずのものが、新たな自己責任論のように変化して捉えられてしまう理由として、”わかりにくいものをわかりやすいものに変えること”が歓迎される風潮があるように感じます。

その風潮のもとでは、わかりやすく変換する過程でこぼれ落ちるものがあるとしても仕方がない、と捉えられがちです。

”人々が依存先を増やしながら自立できる社会の作り方”は、「こうしたらそれが実現できるよね」と一言で表すことは難しく、決してわかりやすいものではありません。

対して、”個人にSOSを出せる力を身に着けさせる”という説明は比較的わかりやすいものです。

でも、そのわかりにくいものをわかりやすいものに変換する過程で取りこぼされたものこそが、大事だという気がしてなりません。

理路整然とわかりやすく説明できなくても言葉を重ね、時間をかけて考え続けることをやめたくないとわたしは思います。

次に紹介する「メイク・サム・ノイズ!」のトピックは、そんなわたしの気持ちを後押ししてくれるものでした。

8章 居場所ある生を生きるために より

「メイク・サム・ノイズ!」

(前略)では、誰かに出会うまでわたしたちは黙っているしかないのかというと、そうではないでしょう。行動しなければ、黙っていたならば、ずっと自分の意見や存在は可視化されないままですし、つながることのできる誰かにも出会うことはできません。

そこで言いたいのは、「メイク・サム・ノイズ!」ということです。(中略)

ノイズを立てなければ、その人が感じていることも、その人がいることも、ないことにされてしまいます。その表現の仕方は、色々な仕方が考えられるでしょう。

#MeToo運動のように、SNSで個人がつぶやくことを通じて意見を表明することは、自分が経験したことや感じたことの結果として、広く世界の人びとに訴えかけたり、知らない人同士の連帯をつくっていくことにもつながりえます。あるいは、とぼとぼ歩きながら、自分の置かれた状況や社会について「わたしが」という主語を使いながらぼそぼそとつぶやき続けるという栗田隆子のようなやり方もあるでしょう(栗田2019)。

(中略)でも、人は存在しているだけで、受苦的なものでもあるし、加害的なものでもあります。だからこそ、それを認識しつつ、それぞれが自分のできるかたちでノイズを立てていけたらよいのではないかと思います。そして、なんでもない”わたし”がそこに存在していること、なにかを感じていることを表明していくのです。

『孤独と居場所の社会学 なんでもない”わたし”で生きるには P196-198』 阿比留久美著/大和書房

いま、このブログに、自分の気持ちを動かした本を紹介し、自分の気持ちをつづることはまさに、わたしにとってのメイク・サム・ノイズです。

自分だけの読書ノートとして書くのでなく、だれかに読まれるかもわからないけれど、インターネット空間の片隅で、長々とまどろっこしく書き記したわたしのノイズがいつかだれかに届き、更に、その人のメイク・サム・ノイズにつながったとしたらこんなに嬉しいことはありません。

わたし自身、本やSNSやブログなどで見聞きした、だれかのメイク・サム・ノイズに背中を押されてきました。

こうしてそれぞれのメイク・サム・ノイズが響き合い、循環し、そのうねりがこの社会を、たとえほんの少しづつでも、生きやすい方向に動かしていくことを信じたいと思います。

 

 

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息子(2013年生)→学校外で育つASDっ子。

出産→育児が辛くて逃げ出したい期→育児しながら自分が育ち直せると気がつく→子どもとの日々のお陰で色々学び、生きやすくなってきました。

2022年4月~通信制大学在学中(心理・教育・福祉等)。

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